山川港は、約5000年前の海底火山の噴火によって形成された薩摩半島最南にある天然の良港です。
中世から日本の貿易港として重要な拠点となりました。
ザビエ ルのキリスト教伝来・前田利右衛門のさつまいも伝来の上陸の地と言われています。
勝海舟・西郷隆盛もこの地を訪れています。
鰹節・山川漬等の食を味わいながら、地元民とふれあい、山川港のまち歩きをお楽しみ下さい。

 簡単に表現すれば地質分野の世界遺産のことです。つまり学術的に貴重な地質や地形を保護しながら教育や観光において有効活用してゆくことです。ジオパーク加盟に向けての作業は、地球と人間のかかわりをしっかり見つめなおすきっかけになるでしょう。

 指宿地区を代表する火山といえば、開聞岳(かいもんだけ)と池田湖(いけだこ)(池田カルデラ)を想像される方は多いでしょう。実は他にも古いものから新しいものまで、様々な形態をした火山を確認することができるのが、山川港周辺の特徴です。まず、山川港自体も、丸い独特の形をしていることから理解できるように、約5000年前に出現した山川マールと呼ばれる火口の一種で、ベースサージ(水とマグマが接触して起こる激しい爆発)を発生させています。

 

 池田湖もほぼ同時代の約5500年前にできた小カルデラで、鰻池も正確な年代は不明ですが同時期の噴火で出現したものです。開聞岳は更に若く、約4400年前から平安時代の仁和元年(885)にかけての噴火により現在私達がなじんでいる形状になりました。有史時代の噴火も大規模なもので、降下火砕物(こうかかさいぶつ)や溶岩、そして火砕流も発生させています。もう一つ山川港近くにあって印象的なのが竹山です。これは正確な年代は不明ですが、山川港などの形成よりもはるかに古い年代に登場した物で、火山岩頸(かざんがんけい)と呼ばれるものです。地中から貫入してきたマグマが、噴出の手前で固結し、その後周辺が浸食され、急峻な岩体が特徴的な姿になりました。

 

 これら一連の火山は、約10万年前に大規模な火砕流を発生させた阿多カルデラ内に含まれるとされ、指宿地区が温泉地帯であることを考え合わせると納得がいきます。こうした地球の恵みやエネルギーをしっかり体感できる山川港周辺は、まさに地質の博物館であり、ジオパーク(地質遺産)といえそうです。

上空から見た様子
竹山

 海に突き出た岬が、独特の曲線を描き、波穏やかな湾をたたえる山川港は、その特異な地形から中世より天然の良港として知られてきました。現在でも鰹漁業を中心とした水産業が盛んで、港周辺のまちなかを歩くと、どこからともなくかつお節の薫りに気付いたりします。

 また薩摩半島の南端域に位置することからも、気候は温暖で、家々や公園などでも南方の植物を見かけます。まち並みも面白く、港から陸側に向かってなだらかに傾斜する地形には、所々に懐かしさを漂わせる路地が広がっています。

 そんな路地を歩けば、港の繁栄を伝えてくれる神社や、山川石の石垣や石塔などに出くわします。特にT字型の突き当たりには、中国伝来の魔除けの石碑「石敢當」(せきかんとう)が多く見られます。

 港町特有の風景や物語につつまれた山川港を是非散策してみて下さい。

昭和初期 かつおの水揚げの様子
港の朝市
山川港古写真

 書物によっては「山河」とも記載されている中世には、地頭年貢の積み出し港として機能していたようです。また南北朝時代の興国(こうこく)3年(1342)5月1日には、南朝勢力に加勢するため懐良(かねよし)親王が薩摩国入りした際、山川港にも上陸したと考えられています。戦国期にあたる天文15年(1546)には、アルバレス(ポルトガル人)が山川に滞在し、西欧人による日本発見の書とされる「日本報告」に山川港の様子を主に記録しています。

 3年後の1549年8月、ザビエルは山川に上陸してから、小舟で鹿児島に向かったという記述があります。その後山川港は、琉球への交易をする際の拠点になっていきます。江戸時代に入り慶長14年(1609)、その琉球に出兵するために薩摩藩の船団が山川港に集結し、その後琉球を支配下に治めました。こうして南西諸島とのつながりが深まった山川港には、砂糖を含む物資の輸送を行う廻船(かいせん)業が発展しました。その代表格が河野覚兵衛家(こうのかくべえけ)で、幕末には島津斉彬(しまずなりあきら)や斉興(なりおき)が屋敷に宿泊するなど藩との関係は密でありました。

 宝永2年(1705)にさつまいもを伝来させた前田利右衛門(りえもん)は、河野家で水夫をしていました。

 天保8年(1837)7月10日、港の沖合にアメリカ船のモリソン号が出現した際には、幕府の異国船打払令に基づき砲撃を加える事件も発生しています。また、安政5年(1858)、勝海舟を総督とする幕府の練習船「咸臨丸」が入港しています。外国や南西諸島との窓口でもあった山川港、その交流の歴史は、辿れば辿るほど奥深いものです。

熊野神社とアコウ大樹の比翼連理の鳥居 昭和3年
山川港古図「三國名勝図絵」より
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第一回山川港祭りの祝賀行列
港祭り演舞場となった旧山川劇場
昭和32年頃の山川港

河野覚兵衛屋敷跡

 山川港近くの急崖(きゅうがい)からのみ産出される火砕流堆積物(かさいりゅうたいせきぶつ)凝灰岩(凝灰岩)で、鹿児島県内各地の由緒のある墓地などで確認される石です。表面が黄色い肌をしていることから、見分けがつきやすく、特に江戸時代には身分の高い人々の墓石として利用されてきました。鹿児島市にある島津氏の菩提寺であった福昌寺跡の島津氏歴代の墓も山川石を加工したものです。

 見た目の美しさもさることながら、加工のしやすさからも重宝され、山川石の分布は、南西諸島にも及んでいます。山川港周辺地区では、産出地で近いこともあり、石垣や石碑などにも幅広く利用されていて、まさに山川を代表する色といえるでしょう。

 山川港の町中を散策していると、T字型になった道路の突き当たりに将棋の駒の形をした石塔が多くおかれているのに気付きます。その表面には「石敢當」または「石散塔」の3文字の碑文が刻まれています。これは中国伝来の魔除けの石塔です。町中を徘徊する魔物は直進する性質があり、T字路などの突き当たりにぶつかると、壁などを突き抜け家に入って来るといわれています。そこでこの石塔を設け魔物の侵入を防ぐのです。「石敢當」の文字については、中国の泰山にいた豪傑または神様の名前といわれています。

 そして、もともとは、「石敢當」でしたが、いつのころからか山川港では「石散塔」と間違えて刻まれるようになりました。下の写真のように「石敢當」と「石散塔」が仲よく並んでいる場所もあります(59体中6割強の36体が石散當)。石散當は、山川生まれの魔除けの石塔と言えましょう。


最古の石敢當

石散塔(左)と石敢當(右)
五人番のアコウ
五人番にあった頃のアコウの木
五人番から指宿市の太平次公園に移植されたアコウの木
琉球・山川港交流400周年の
実行委員とアコウの苗木
沖縄県浦添市の浦添緑地公園に
植樹されたアコウの苗木
 薩摩藩の琉球侵攻で琉球と山川港の交流が始まってから400年を迎えます。

 薩摩藩は1609年琉球に出兵、明治の初めまでの260年余り統治下に置きました。その間、山川港には琉球から1000回近く、使節船が来航したとの記録があり、一般の貿易船の数は当然それ以上、まさに山川港は琉球と本土の交流の玄関口であり大いに賑わっていました。

 藩政時代、「五人番」といわれる見張り場所があった山川港大渡海岸に首里城から運ばれたといわれるアコウの巨樹がありました。琉球の使節船もとも綱をとったと伝えられています。

 260年余りに亘り続いた琉球・山川港の交流を、じっと静かに見届けていた歴史の証人、それが「五人番のアコウ」(推定樹齢300年)なのです。

 2004年の夏、この「五人番のアコウ」が台風でなぎ倒されました。多くの市民の善意が寄せられ直ちに指宿港太平次公園へ移植され元気に生き返っています。

 2009年10月、「五人番のアコウ」から取り木した苗を琉球の港に移し、里帰りの植樹を行いました。

 2009年11月、琉球・山川港交流400周年事業が山川港で行われます。

 「五人番のアコウ」は、琉球・山川港交流400周年事業のシンボルツリーとなっています。