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1.さつまいも・ザビエル上陸の地
現在漁船などが停泊する浦向港は、山川を代表する港のひとつでした。ここに宝永2(1705)年、豪商・河野家の船の水夫だった前田利右衛門は、琉球から甘藷の種芋を持ち帰ってきました。後に甘藷は全国へ広がって行くことになります。またキリスト教を布教するために、天文18(1549)年に、鹿児島を訪れたザビエルもまず山川のここに上陸したといわれています。
2.河野覚兵衛(こうのかくべえ)墓石群
江戸時代に薩摩藩の南西諸島に対する貿易の一翼を担った河野家は、代々を「覚兵衛」と称する家柄でした。もともと河野家は伊予国の水軍の出ともいわれています。墓石は五輪塔で、歴代当主と家族の墓が並んでいます。
3.旧正龍寺(しょうりゅうじ)跡墓石群
正龍寺は、明徳元(1390)年、名僧虎林和尚が招かれて再建されました。その後多くの名僧を出し「薩摩の文教の府」ともいわれ、また貿易港山川港に入る外国船の外交文書の授受にあたっていました。明治2(1869)年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となりました。そのとき、散逸していた関係墓石を集めたのがこの墓石群です。
4.西南戦争戦没者招魂塚
山川から西南の役に出兵し戦死した人々の魂を鎮めるために建てられました。石碑の側面には、死亡した人々の名前、死亡した場所、年齢等が刻まれています。

「西南の役」が始まった時は、山川からも若い青年が、西郷さんに味方して多く参加しました。しかし、当の政府軍についた人もおり、山川の町は真っ二つに分かれて、政治的対立が激しかったそうです。

ここは元々は琉球墓のあった所です。この招魂塚を建立するにあたり、琉球墓を壊し土を盛って造られました。このことに、琉球との縁が深かった河野家の当主は猛反対したそうです。

ここは、少し高台なので山川港の町並みがきれいに見えます。

5.山川漬の工場見学
山川漬は、今、全国にその名を知られた自然食品です。素朴で気品のある香りを持ち、風味がよく、一種独特の漬物です。噛めば噛むほど口いっぱいに甘みが広がり、一度口にすると忘れ難い印象を覚えます。

その歴史は古く、江戸時代に沢庵和尚が「たくあん」を開発したときには既に存在していました。1592年の朝鮮の役や1609年の琉球侵攻の時、薩摩藩は保存食として山川漬を持参したと歴史書にあります。

昔、山川漬を地元の人々は「唐漬」と呼んでいました。文字通り中国の唐からかた伝わって来たものです。漬物壷も当初は唐から輸入されたものを使っていたそうです。

6.地頭仮屋跡(じとうかりやあと)
江戸時代、薩摩藩の直轄領であった山川郷には地頭仮屋が設置され、(あつかい)・横目・組頭といった三役によって政治が行われていました。現在は支所の東側と西側に、当時を偲ばせる石垣が残っていて、これらは山川の象徴でもある山川石によって形成されています。
7.武家屋敷跡に残る石垣
薩摩藩は一国一城令(1615年)により、鶴丸城以外は全て棄却し、それに代わるものとして外城(とじょう)と呼ぶ「麓」を置きました。そして、「御仮屋」とか「地頭仮屋」といわれる在地役所を中心に、その周辺にイヌマキの生垣と石垣造りの武家屋敷の集落が形成されました。

山川でも仮屋地頭を中心として城下町山川の面影を武家屋敷通りに残しています。道路に面して築かれた石垣には山川石が使われています。

8.山川港最古の石敢當
山川港の町中を散策していると、T字型になった道路の突き当たりに将棋の駒の形をした石塔が多くおかれているのに気付きます。その表面には「石敢當」または「石散塔」の3文字の碑文が刻まれています。これは中国伝来の魔除けの石塔です。町中を徘徊する魔物は直進する性質があり、T字路などの突き当たりにぶつかると、壁などを突き抜け家に入って来るといわれています。そこでこの石塔を設け魔物の侵入を防ぐのです。「石敢當」の文字については、中国の泰山にいた豪傑または神様の名前といわれています。
そして、もともとは、「石敢當」でしたが、いつのころからか山川港では「石散塔」と間違えて刻まれるようになりました。下の写真のように「石敢當」と「石散塔」が仲よく並んでいる場所もあります(59体中6割強の36体が石散當)。石散當は、山川生まれの魔除けの石塔と言えましょう。

この石敢當は山川港で最古のものといわれています。

9.宝持院盈寿様(えいじゅさま)の逆修塔
僧・盈寿(えいじゅ)は、鰻温泉の開発の祖とされる人物です。山川石でできた逆修塔は、その弟子である白雲法師のためのもので、建立の経緯が刻まれています。
10.八代目河野覚兵衛肖像碑
八代目河野覚兵衛の湿板写真を、最新の加工技術で刻んだ石碑です。ちょんまげ姿の清明な人物像には驚かされます。元になった写真は、当時討幕運動の軍事資金を調達していた覚兵衛へ、島津忠義公が撮影し賜った物と伝えられていますが、諸説あるようです。第十代の覚兵衛さんは、戦時中空襲警報が鳴ると、何よりも真っ先にこの写真を持って逃げたそうです。

11.正龍寺(しょうりゅうじ)仁王像
慶長元(1596)年に近世儒学の祖とされる藤原惺窩(せいか)は、この寺を訪れ薩南学派の祖である桂庵玄樹などが研究した和訓に関する書物を写し取っています。このように山川港を代表する寺院でしたが、明治2(1869)年の廃仏毀釈によって廃寺となりました。現在は浄土真宗本願寺派の寺として創立されていますが、当時を偲ばせる正面の仁王像と境内の板碑があります。この仁王像は、旧正龍寺の正面に建っていた物で、廃仏毀釈での難を逃れて無傷のままの貴重な像です。