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イ.さつまいも・ザビエル上陸の地
現在漁船などが停泊する浦向港は、山川を代表する港のひとつでした。ここに宝永2(1705)年、豪商・河野家の船の水夫だった前田利右衛門は、琉球から甘藷の種芋を持ち帰ってきました。後に甘藷は全国へ広がって行くことになります。またキリスト教を布教するために、天文18(1549)年に、鹿児島を訪れたザビエルもまず山川のここに上陸したといわれています。
ロ.琉球人鎮魂墓碑
薩摩藩による統治以降、山川港で亡くなった約5百人を弔った琉球人墓地が多数ありました。しかし1880年、福元墓地の一角に西南の役戦没者招魂塚を建てた際に撤去されました。

琉球侵攻から400年の節目のときを迎え、遠く離れた地で故郷を思いながらこの地で亡くなった琉球の人々を慰霊しようという機運が高まりました。そして、このたび、琉球・山川港交流400周年事業実行委員会により鎮魂墓碑が建立され、2009年11月29日に「望郷の碑」とともに除幕式を行いました。碑は大理石でつくられ、紙銭(うちかび)を燃やす器も設けられました。

※1沖縄では墓参りの際、紙銭(うちかび)というあの世で使えると信じられているお金(紙幣)を燃やす風習があります。

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ハ.河野覚兵衛(こうのかくべえ)墓石群
江戸時代に薩摩藩の南西諸島に対する貿易の一翼を担った河野家は、代々を「覚兵衛」と称する家柄でした。もともと河野家は伊予国の水軍の出ともいわれています。墓石は五輪塔で、歴代当主と家族の墓が並んでいます。
ニ.旧正龍寺(しょうりゅうじ)跡墓石群
正龍寺は、明徳元(1390)年、名僧虎林和尚が招かれて再建されました。その後多くの名僧を出し「薩摩の文教の府」ともいわれ、また貿易港山川港に入る外国船の外交文書の授受にあたっていました。明治2(1869)年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となりました。そのとき、散逸していた関係墓石を集めたのがこの墓石群です。
ホ.西南戦争戦没者招魂塚
山川から西南の役に出兵し戦死した人々の魂を鎮めるために建てられました。石碑の側面には、死亡した人々の名前、死亡した場所、年齢等が刻まれています。

「西南の役」が始まった時は、山川からも若い青年が、西郷さんに味方して多く参加しました。しかし、当の政府軍についた人もおり、山川の町は真っ二つに分かれて、政治的対立が激しかったそうです。

ここは元々は琉球墓のあった所です。この招魂塚を建立するにあたり、琉球墓を壊し土を盛って造られました。このことに、琉球との縁が深かった河野家の当主は猛反対したそうです。ここは、少し高台なので山川港の町並みがきれいに見えます。

ヘ.旧唐人町(とじんまっ)
山川港は琉球だけではなく、中国、東南アジア、ヨーロッパとも貿易によりつながっていましたた。唐人町は、琉球人、明国など異国人の貿易商が住んでいた町です。唐人通りを中心にした一画にありました。
ト.山川港最古の石敢當
山川港の町中を散策していると、T字型になった道路の突き当たりに将棋の駒の形をした石塔が多くおかれているのに気付きます。その表面には「石敢當」または「石散塔」の3文字の碑文が刻まれています。これは中国伝来の魔除けの石塔です。町中を徘徊する魔物は直進する性質があり、T字路などの突き当たりにぶつかると、壁などを突き抜け家に入って来るといわれています。そこでこの石塔を設け魔物の侵入を防ぐのです。「石敢當」の文字については、中国の泰山にいた豪傑または神様の名前といわれています。
そして、もともとは、「石敢當」でしたが、いつのころからか山川港では「石散塔」と間違えて刻まれるようになりました。下の写真のように「石敢當」と「石散塔」が仲よく並んでいる場所もあります(59体中6割強の36体が石散當)。石散當は、山川生まれの魔除けの石塔と言えましょう。

この石敢當は山川港で最古のものといわれています。

チ.山川漬と漬物がめ
山川漬は、今、全国にその名を知られた自然食品です。素朴で気品のある香りを持ち、風味がよく、一種独特の漬物です。噛めば噛むほど口いっぱいに甘みが広がり、一度口にすると忘れ難い印象を覚えます。

その歴史は古く、江戸時代に沢庵和尚が「たくあん」を開発したときには既に存在していました。1592年の朝鮮の役や1609年の琉球侵攻の時、薩摩藩は保存食として山川漬を持参したと歴史書にあります。

昔、山川漬を地元の人々は「唐漬」と呼んでいました。文字通り中国の唐からかた伝わって来たものです。漬物壷も当初は唐から輸入されたものを使っていたそうです。

リ.地頭仮屋跡(じとうかりやあと)と山川石の石塀
江戸時代、薩摩藩の直轄領であった山川郷には地頭仮屋が設置され、(あつかい)・横目・組頭といった三役によって政治が行われていました。現在は支所の東側と西側に、当時を偲ばせる石垣が残っていて、これらは山川の象徴でもある山川石によって形成されています。
ヌ.山川薬園跡(やまがわやくえんあと)竜眼ひろい
万治2(1659)年、藩によって薬草研究のための薬園が開設されました。その後に、対岸の佐多や鹿児島城下に近い吉野にも薬園が設置されましたが、その始まりでもあります。当時薬園では、リュウガンやレイシ、ハズ、キコクなどが栽培され、現在はリュウガンのみが残されています。また敷地は明治以降から昭和44年まで山川小学校として利用されていました。
ル.琉球人望郷の碑(愛宕山から見る五人番)
時代の潮流に翻弄された琉球の古人たちに心からの敬意を表し、琉球・山川港交流400周年事業実行委員会により、五人番が眺望できる愛宕山に建立されました。2009年11月29日に「鎮魂墓碑」とともに除幕式を行いました。除幕式の様子についてはこちらをクリックして下さい。

ヲ.水底のうた(沖縄戦時船舶遭難の碑)
ここに建つ戦時船舶遭難の碑、水底のうた像は1670人が犠牲になった湖南丸、嘉義丸、台中丸、開城丸、宮古丸、5隻の遭難の碑です。湖南丸海没51年にあたり反戦平和の思いをこめてこの碑を建立しました。
船舶名
沈没年月日
遭難位置
犠牲者数
湖南丸
1943年12月21日
屋久島西方
767人
嘉義丸
1943年5月26日
奄美大島近海
321人
台中丸
1944年4月12日
奄美大島近海
232人
宮古丸
1944年8月5日
徳之島南方
271人
開城丸
1945年3月24日
東支那海
79人
1994年12月21日 沖縄県戦時遭難船舶遺族会

碑文より転載致しました...